栃木の流行り病 感染症 伝染病
〜近世末から近現代の感染症を振り返る〜


戸村光宏理事、岡一雄先生、君島充宣副会長(聞き手)



 ある日突然現れ、人々の間に流行して命を奪ってゆく病気を、江戸時代までは「流行り病」や「疫病」と呼んでいました。 西洋医学が導入された明治期に「伝染病」に替わり、1897年に「伝染病予防法」が制定されました。 のちに同法は1998年に廃止となり、新たに「感染症法」が制定されました。
 この度、郷土の先人たちがいかに見えない敵(ウイルスや細菌)と闘ってきたのかを記した本が出版となります。 編集に関わった岡一雄先生(さくら市開業)と戸村光宏理事に出版の経緯や、新型コロナにも触れながら感染症についてお話をお伺いしました。 聞き手は君島充宣副会長。



人間の寿命を決めていた感染症

君島充宣副会長(以下、君島) 近代の感染症をテーマにした『栃木の流行り病感染症 伝染病』(写真)を出版する岡一雄先生と戸村光宏先生にこの本の作成の経緯などをお話し頂きます。

岡一雄先生(以下、岡) 9月に下野新聞社から出版される予定です。戸村先生と私は10数年にわたり塩谷医療史研究会を行なっています。 同研究会は栃木県の近世近代研究の第一人者である大嶽浩良先生を中心に医療関係の古文書を研究しています。 最初は塩谷郡市医師会史を編集するということで始まりましたが、途中から栃木県内に範囲を広げて医療関係の資料を集めて分析・研究しています。 その成果として何冊か本を出しており、そのうちの一冊が「幕末明治大正期の医療塩谷の地から『醫』をさぐる」(写真)
その後、栃木の医療史を網羅した最初の1冊となる「とちぎメディカルヒストリー」(獨協医科大学出版)や、『栃木県医師会史U〜令和から振りかえる医師会史〜』等の執筆にも関わりました。
 そして今回、10数年に及ぶ同研究会の成果を感染症に絞って出そうということになった訳です。 たまたま新型コロナ感染症のパンデミックの時期と重なり、このような感染症の本を出すことは重要な意義のある事で、急遽、コロナ禍の中での出版にこぎつけました。

君島 感染症に絞ってということですが、感染症で亡くなる方は20世紀半ばまでは多かった様です。 その要因についてはいかがお考えでしょうか。

 感染症の歴史を見ると、かつて人間の寿命を決めていたのは感染症だったことが分かります。 本の冒頭でも触れましたが、現在我々は「感染症」と呼んでいますが、以前は「流行り病」とか「伝染病」と呼ばれていました。 「流行り病」は、いつの間にか流行って、多くの人が亡くなってしまうという意味合いからつけらた名前です。 江戸時代までは疫病とも呼ばれていました。どんな偉い人でも罹れば亡くなってしまい、そのことで歴史が変わることもあります。 また、「感染症は世界を動かす」とも言われています。
 それが19世紀になって顕微鏡が発明されて、感染症の原因の一つである病原菌や細菌が発見され、それに対する抗生物質や抗ウイルス薬が出てきて、感染症は20世紀半ば以降、医学や医療の主流からは外れてしまいました。 感染症は恐れるに足らずという雰囲気になっていたのですが、ところがHIV(AIDS)、エボラ出血熱、コロナウイルスのSARS、MERSなど致死率が高い感染症が次々と出てきました。
 そして今、人類は新型コロナウイルスのパンデミックで苦しんでいます。

君島 感染症の原因と言っては何ですが、風習や生活であったり、シュバイツア―がアフリカへ医療活動に行った時、原住民を川に行かせて先ずは体を洗わせました。 原住民からしてみれば余計なお世話かも知れません。人々の習慣を変えていくということは大変な事だと思います。

 例えば、この本でも取り上げたコレラや赤痢などの消化器系の感染症は、上下水道を整備したり、衛生習慣を身につけることでかなり防げます。 君島先生がおっしゃるように、未開でそのような知識のない人たちに衛生観念を植え付けることは重要なことです。 ただそれだけでは防げない病気もたくさんあって、例えば新型コロナもそうですが、咳とか鼻みずで感染する呼吸器系の病気は水道を整備すれば防げるということではないので、そこが感染症の難しいところです。

戸村光宏(以下、戸村) 不潔の風習の人々に清潔を教えるというお話でしたが、今回の本の中で、さくら市ミュージアムの中野英男元館長が、行政が人々に衛生観念を広めようとしたことを書いています。 明治時代に清潔法というものがあったのはご存知ですか。

君島 良くは存じ上げませんが、逆に言うとそのような法律がないと感染症の予防が成立しなかったということでしょうね。

戸村 一般の人々が清潔を意識していない時代があったということです。このことを日記に記していた渡辺清少年という人物がいます。 この本には彼の日記も紹介されていますので、ご一読頂くと君島先生の疑問に答えてくれると思います。 一般の人々が余計なお世話と感じていたものが徐々に衛生観念を理解し始めて行くことがお分かりいただけると思います。

 「とちぎメディカルヒストリー」にも中野元館長が書かれています。



日本のマスク習慣とスペイン風邪

君島 そのような積み重ねもあり、だんだん病気がなくなっていったのでしょうから、そのようにしなかったらまだまだ増えていったことでしょう。
 今、世の中のトピックスは新型コロナなので、そこら辺と今までの感染症と同じ点など、これから私たちはどのようにしていくべきか等、ヒントがあればお話しください。

 およそ100年前、「スペイン風邪」と呼ばれる新型インフルエンザのパンデミックがありました。当時、全世界の約3分の1が罹り、5千万人が亡くなったと言われています。 致死率は3〜4%ぐらい、高いところで5%と言われています。今回の新型コロナのパンデミックより、はるかに多くの方が犠牲になっています。
 今回の新型コロナのパンデミックでは感染防止のためにマスク着用が重要ですが、スペイン風邪の時から日本人はマスクをするという習慣ができたと言われています。 その頃は「呼吸保護器」とも呼ばれていましたが、一般の人たちはマスクとはどういうものかわからなかったので、行政が女学生や赤十字社にマスクを作らせて一般の人に分けるということを行っていました。 当時のポスターのキャッチコピーに「マスクをかけぬ命知らず」という秀逸なものがあります。
 それから人と人が密になるのを防ぐために、劇場など人の集まるところの出入り制限なども行っていて、罹った人は部屋に隔離して接触を減らすことも行われていました。ただし手洗いだけは、当時指導されていませんでした。
 また、予防接種も行われていましたが、当時は原因がウイルスだということは分かっていませんでしたから、インフルエンザウイルスに対するワクチンではありませんでした。 原因と考えられていた細菌に対するワクチンだったので、効果は限定的だったと思います。それから感染は鉄道などにより都市から地方に拡大しており、地方では当時医師が少なかったため医療的には悲惨な状況になりました。
 この時の地方での感染の様子を当時矢板町(現矢板市)の五味渕伊次郎という開業医が記録を残しています。 新型コロナも全く同じような状況で、感染が東京から地方に拡大し、東京に比べると医療体制が脆弱な地方では、医療逼迫が起きてしまいます。 残された様々な記録を読むと、我々は100年前のスペイン風邪の経験を生かした政策ができているのか、新型コロナに対峙できているのか甚だ疑問です。

君島 (今のマスクの話ではありませんが)日本人は電車に乗っていても道を歩いていてもみんなマスクをしています。外国を見るとマスクをしていない人がたくさんいます。 新型コロナも第3、4、5波と拡大の一途を辿っていますが、医師の立場で言えることはありませんか。

 人里離れた所で仙人のような生活をしている人でなければ、現代社会では長期の自粛生活は難しいと思います。 人と人は直接会って話すことで得られるものが大きいため、全てリモートに切り替えるはできません。 感染症は、もともと人類が集団で生活する前はありませんでした。 感染症は集団で生活をすることによって人間同士が病気をうつし合うことで成り立ちます。 それから、文明が発達して定住することによって家畜を飼うことになり、その家畜の病気を人間がもらうことで新しい感染症が起きます。 新型コロナも最初はコウモリからだと言われています。インフルエンザも、鳥の病気が豚にうつり、そして人間が感染するようになりました。 ですから中間の豚がいなければ鳥から人間に直接感染することはまずありません。九州大学の山本教授は、「文明は感染症のゆりかご」と言っているくらいです。 また、人間同士が接したりすることがなくなると、人間として生きる価値があるのかということになってしまいます。
 接触することは仕方がないことで、感染症が収束したら前と同じように、人と人はある程度は密になることは仕方がないことです。難しいとは思いますが、感染が収まるまで今は我慢してもらうしかありません。

君島 私は、今までの人類の行いが試されていて、皆が一つにならないと乗り越えられないのではないかと考えています。 人と人が交流する、交わることは喜びであると思いますし、そのためにも今は一致団結するしかないと考えます。

戸村 人間は感染症とずっと付き合ってきました。今回、この本の中で私は梅毒について書きましたが、梅毒を防ぐには何もしなければよいのです。 人々は離れていて性的な接触もしなければよいのですが、そうすれば子どもはできず、人類は滅びてしまうということになります。 この世にはいろんな感染症があり、それが原因で死んでしまうことも多いのですが、人間社会を営んでいく上では感染症はあっても仕方がないと私は考えた方がいいと思います。 病気に立ち向かう、予防することはもちろん大切ですが、(それが行き過ぎて)アメリカ等のようにロックダウンとなると、一時的であればよいが人間社会が壊れてしまいます。 感染症に対してもう少し、意識の上では寛容でいいのではないかと思います。
 新型コロナウイルスとはそれなりに付き合っていかないと人間社会は成り立ちません。もちろん、感染拡大を防ぐための消毒など対策は重要であることは当然です。

君島 これまでは感染者を排除してきたのが今までですから、私たちも変わって感染症に対処していく必要があると思います。

戸村 今の新型コロナは高齢者が感染すると重症化しやすいとされています。スペイン風邪の流行時は、働き盛りの若者が感染して亡くなっていきました。 私の母親(当時1歳でしたが)の両親は、大正8年にスペイン風邪で亡くなりました。母親からそのことを聞かされていましたから、スペイン風邪は有名だと思っていました。 しかし、医師になってから結構知らない人が多かったことに気付いてちょっと驚きました。
 今回新型コロナで知られるようになりましたが、新型コロナと違ってスペイン風邪は若い人が感染して亡くなってしまったということです。

君島 若い人たちが亡くなってしまうと、社会の活力が失われてしまいます。

 スペイン風邪が大流行したのは第一次世界大戦の時ですが、発祥の地はアメリカだと言われています。 アメリカがヨーロッパ戦線に派兵して、ヨーロッパにスペイン風邪を持ち込んでしまいます。 当時、スペインは中立国だったため戦争に参加しておらず報道管制していませんでした。戦時下の他の国々では、そのような疫病が流行っている事は一切発表しませんでした。 そのため、最初に報道した国が発祥と考えられ、スペイン風邪と呼ばれるようになりました。 戦死者の何倍もの人が亡くなり、しかもその多くが若者であったため、戦後の復興が大変でした。



経験や教訓を残して後世に伝える

戸村 マスクの話に戻りますが、「結核-亡国病といわれた時代」も私が担当したのですが、明治、大正初期の資料を見ると、結核が流行った時はマスクではなくハンカチで予防をしていました。 マスクそのものは存在していましたが、当時、赤十字が記した結核の予防法をみるとマスクについての記載は見あたりません。 余談ですが、痰は“痰ツボ”に吐きなさいという記載がありまして、痰の中に結核菌があるということを強調していました。

 衛生環境が良くなると感染症が防げると考えられていますが、必ずしもそうではありません。例えば、ポリオ(小児マヒ)は文明病とも言われています。 赤ちゃんのうちに罹ればあまり重症化せず、マヒなどが起こる確率も低いのですが、大人になってから罹ると、重症化してマヒする可能性も高くなります。 20世紀前半に水道が整備され衛生的には優れていたヨーロッパやアメリカでポリオが流行しました。それは何故かというと、あまりに清潔にし過ぎて子どもの頃に罹る機会が失われ、大人になって罹る人が続出したのです。
 アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は子どもの頃にポリオに感染してマヒが残り車椅子を使用していました。 彼は有名な「10セント運動」で、国民に広く寄付を募り、ポリオ撲滅の研究費に充ててポリオワクチンを開発しました。 その当時、日本でも流行りましたが自国でポリオワクチンを作ってなかったため、ワクチン不足になり「ポリオ騒動」が起こります。 新型コロナワクチンをめぐる今の日本の混乱ぶりと似ていますね。

君島 小さい頃は、「疫痢」「赤痢」等いろいろありました。同級生に小児マヒが残っているという人もいました。親からは「赤痢になってはいけない」と言われていた記憶があります。

 昔の思い出として、この本にも少し書かせて頂きましたが、私が小学2年生の時、赤痢が流行り何十人も罹りました。 当時、同級生などが検便で陽性となると近くの塩谷病院に強制的に連れて行かれました。このことは鮮明な記憶として覚えています。

君島 それを考えると、私たちが子どもの頃を分岐に、それまでとそれからの日本では全然違うような気がします。

戸村 赤痢はそのうちたいした病気ではなくなってしまいました。

 今は抗生剤を使えば治りますので、亡くなることはありません。あまり大騒ぎするような病気ではなくなってしまいました。

君島 最後に、本を書かれて患者・市民に伝えたい事がありますか。

 感染症は我々とは切っても切れない病気です。今回の新型コロナも来年には収束してくれればと思いますが、仮に新型コロナが落ち着いた後も別の感染症が出てくるでしょう。 今回の事を教訓に、自分たちが次にこのような感染症に遭遇した場合、どうしたら良いのかそれぞれ考えてもらいたいです。
 そして我々が過去の感染症を紐解いて書いたのと同様に、未来や今後の子孫のためにもこの経験や教訓を残してもらいたいです。「のど元過ぎれば熱さ忘れる」と言いますが、記録を残さないと後世に伝える事ができません。
 また、感染症対策は全世界や国単位の大きなスケールで行う必要があります。 今回の政府の対応が適切であったのかどうか、過去の経験を生かせたのか、専門家会議の議論を生かせたのか等、きちんと評価、検証して今後に生かす記録を必ず残してもらいたいと思います。

戸村 今回、新型コロナが流行り、感染症の歴史はどうなっていたのかという事で本を出しました。 保険医協会の先生方にも広く知って頂きたいと思い、岡先生にお話し頂きました。 本の中では、栃木県の資料を多数紹介していますので、ぜひ感染症に対して当県の当時の医師がどのように対処したのか、それは現在の医学からみて首をかしげる治療が多々ありましたが、そのことも含めて、 現在医療の第一線で奮闘している先生方には読んでほしいと考えています。

君島 私も知らない事が多かったので非常に勉強になりました。 岡先生が話されていましたが、我々が子どもの頃はある意味では感染症は身近に存在するものでした。 なくなったと思いましたら、別のものが出てきて対応していかないといけない歴史があります。この事を学ばないと未来に生かせないし、しっかりと伝えていく責務が我々にあると思います。
 この本を読ませて頂き、患者のため自分のために役立てたいと思います。ありがとうございました。



五味淵伊次郎医師の記録

君島 スペイン風邪が流行した時に、矢板の医師が治療した記録を残していたことが本で紹介されていますね。

 スペイン風邪は都市から地方に感染が広がり、地方では悲惨な状況になったということは先ほどお話ししました。
 栃木県矢板町木幡(当時)にスペイン風邪の事を記録に残していた開業医・五味淵伊次郎医師がいました。「大正7年8年世界的流行性感冒の記録」という本があります。 当時のスペイン風邪の記録を残しているのは、国の内務省衛生局が残した報告書、大学教授が書いたいろんな症例報告、それと有名人が書いた日記、志賀直哉の小説「流行感冒」などがあります。 一般の開業医が経験した事を残したのは、日本では唯一、世界でも非常に珍しいと言われています。
 当時の医療というのは往診が中心で、五味淵医師は毎日呼ばれていろんなところに出向き、矢板から山一つ越えた塩谷町までも往診していました。それは恐らく馬に乗って行っていたのではないかと言われています。それから矢板市内のとなり村には自転車で往診していました。
 ある日の記録が記されていますが、朝、雪が降っている中を出かけ、自宅に返って来るのが夜になってしまいます。 何人も往診するのですが途中お腹が空いてしまい、今でいうところの小料理屋の前を通ります。 すると中から男女が談笑しているのが聞こえ、美味しそうな料理のにおいがしてきて涎が出てしまいます。
 五味淵医師は、何の因果でこんな仕事をしているのだと思いますが、途中で開業医の仲間が人力車で往診をしているのを見てみんな頑張っているんだと誇りを取り戻したエピソードなども記されています。
 往診から家に戻ると、スペイン風邪で寝込んでいたお手伝いの少女が亡くなってしまいます。何人もが亡くなっていくところを診て、あるいは治療をして返ってきたあげく、自分の家でも身近の人が亡くなってしまうという悲惨な経験が記されています。
 この記録は、国会図書館のデジタルコレクションで見られるので、是非多くの方に読んで頂きたいです。日本ではそこでしか見ることができない貴重なものです。実物が他に現存するのであれば、ぜひ目の当たりにしてみたいものです。 しかも、東京ではなく京都の国会でしか見ることができません。そしてこの本の存在を発見したのは実は日本人ではなく、ニュージーランドの研究者でそこも運命的な出会いがありました。これらの事も本に書きましたので、お読み頂けたらと思います。 (終わり)

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